2023-05-17

今日同僚と話していて気がついたのだが、僕は呼び方を腹に落としたい人みたいだ。新しく学んだ概念をなんて呼べば良いかがはっきりすることが大切で、単に記号として確立しているだけでは不十分みたい。たぶん、英単語を覚えるときに日本語訳より発音記号を大事にしたことが元凶だろう。

呼び方は僕の中でそれなりに重きをおいている概念な気がする。人をなんて呼ぶかは気を遣うし、呼び方が人間関係をある程度定めるとも思っている。たとえば「おまえ」と呼べる人は信頼できる人で、それが昔ながらの意味で失礼に当たらない人である、とか。

こういうふうに、名前とか呼び方を真剣に考えるのは研究室に入ってからのことだと思う。なんで考えるようになったかというと、社会学の講義で役割や役割期待について知ったことが影響していそう。もっとさかのぼると、中学で習った縁の概念も関係しているし、僕の縁の解釈には物理とか数学も絡んでいる(お酒を飲んでいるとどんどん話が発散していく)。

回線速度が良いと自己肯定感が高まってとても良い。git push が終わるまでのレイテンシでその日の幸福度の半分くらいが規定されているんじゃないだろうか。